信仰体験談

2018年11月8日(木)
【他人事にしていませんか?】
「忙しい」「必要性を感じない」「もし、乳がんと分かったら怖い」。乳がん検診を受けていない理由を調べたアンケートには、こうした回答が多く並ぶ。福岡県宗像市に住む武田淑子さん(65)=福岡牧口支部、県副婦人部長=は、乳がんと闘った実体験を踏まえ、検診受診率の向上に尽くしている。

 先月24日、宗像市のショッピングセンター前にピンク色ののぼりが立った。
「ストップ・ザ・乳がん」の文字。武田さんら、「むなかたMAMMA」のメンバーが乳がん検診の受診を訴える。
 手渡すリーフレットには「勇気を出して自分を守ろう!」と記されていた。未受診の婦人と語らうと、武田さんの話に熱がこもる。
 「私も乳がんだったんですよ」――13年前、当時52歳。風邪さえひかないのが自慢だった。健康への自信があっただけに、胸の異物感に気付いても忘れようとした。マスメディアを通して見聞きする「乳がん」というワードをあえて避けた。
 恐怖心が受診を遠ざけること4カ月。葛藤の時間を経て病院へ。診察結果を聞くと、不安が現実になった。
 “早く来ておけば”“定期検診も受けていれば”
 後悔はあったものの、幸いまだ手術ができる状態だった。唱題に完治への決意を込める。一方、心のどこかで人生の最期を意識してしまう。自然と、自宅で思い出の品の整理をしていた。
 折れそうになる自分。逃げたくなる自分がいる。それでも御本尊に祈ることで、そんな自分自身の中から、立ち向かう勇気が湧き出てくるのを感じた。
 「命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ」(御書1587ページ)
 病魔と闘う門下への御聖訓が胸に響いた。
 「後悔よりも、闘う決意の方が上回っていきました。悲観主義は気分だから、弱い心に流される。楽観主義は諦めじゃなくて、強い意志です」
                          ◇ ◆ ◇ 
 右胸の全摘出手術を終えた翌日。同部屋の婦人の車いすを押して歩くほど、心身ともに軽やかだった。会話に笑みがこぼれる。
 かつては、暗い性格を悩んだ。
 ――生後半年で両親が離婚。親戚の元で育った。周囲の顔色をうかがう。人を信じられない。そんな子どもだった。
 20歳の時に、創価学会に入会したのは、友人の明るい人柄に引かれたから。直後、疎遠だった母と再会できた。母も学会に入会し、娘の幸せを祈っていたことを知る。“捨てられた”という悲哀によって呼ぶこともなかったが、初めて「お母さん」と口にするようになった。
 親戚と営む商売が破綻するなど、つらい経験も続いた。それでも、母子でいれば笑顔があった。母はよく言った。「ここから逃げんよ。仏法の正義を、ここで証明しよう」
 宝物がある。亡き母が唱題時間を記録したノート。1979年(昭和54年)4月24日の欄には「池田先生会長辞任。涙、涙、涙」と。そんな母の思いを継いで生きてきた。
 抗がん剤は気力をそぐ。“証明する”と決めれば、負けられなかった。
 「宿命から目をそらすことはしません。憂うつになるのも生きている証し。言い聞かせるんです。“乗り越えてみせる”って。その一日一日の積み重ねが、財産になります」
                         ◇ ◆ ◇ 
 以前、武田さんが乳がんの検査を勧め、受診した女性たちの中に、初期の乳がんが見つかった人がいた。早期発見で事なきを得る。
 低い検診受診率に早期治療の重要性。乳がんという言葉は身近でも、その実態はほとんど知らなかった。こうした知識を広めたい。婦人部の友と乳がん啓発の必要性を語り合い、2006年(平成18年)、乳がんの啓発グループ「むなかたMAMMA」をスタートさせた。
 自分自身が副作用の少ない抗がん剤治療を続ける身でありながら、啓発の取り組みについて学ぼうと、他県で開かれるピンクリボン運動に足を運んだ。
 長崎でのイベントに参加した時。妻を乳がんで亡くした夫が検診を呼び掛けていた。声を詰まらせながら、涙を拭って。
 自分は、残されるかもしれない家族のことを、どれだけ思っていたんだろう。後回しにしないことで、自分の命を守り、周囲の笑顔も守れる。そのために、誰かの一歩を後押ししたかった。
 検診に関心のない人と出会うと、自らの闘病を振り返りつつ、大切さを訴えるようになった。いつも言っていることがある。「人ごとにしていませんか?」――
 術後、医師から告げられた現実は重かった。「5年生存率は5割以下」。嘆くよりも、どう生きるか。行動に迷いはなかった。
 「生きることは伝えること。口を閉じてしまえば、そこで止まる。乳がんで泣く人をなくしたいんです」
                       ◇ ◆ ◇ 
 街頭での検診呼び掛けに始まり、専門医を招いての講演会。乳がん患者を題材にした映画の上映会も開いた。イベントを開催する資金は、企業や商店を回り、協賛を得た。
 宗像市役所とも連携しての啓発運動。当初、市内の検診受診率は1割台だったが、現在は4割を超えるところまできた。
 入院中、ページをめくった池田先生のてい談集『健康と人生――生老病死を語る』。その中に、仏法者の使命を語った言葉がある。
 「現実社会の苦しみに打ちひしがれることなく、また、逃避するのでもなく、生老病死の『四苦』を自身を鍛えるチャンスととらえて真っ正面から挑戦していくのです。同時に、他者の苦しみにも『同苦』し、ともに協力し合って、『苦』を『楽』に変えゆく戦いを展開するのです」
 啓発活動の中で、多くの患者と触れ合う。ある若年性の乳がん患者は、家族にも言い出せずにいた。抱え込む人に言葉は必要ない。うんうんと、ただ耳を傾けた。うなずいて、心をほぐすことから始める。
 今、月に1度、乳がん患者のサロンを開いている。「ここに来ると、ほっとする。私の楽しみです」。そう言ってくれる人に寄り添いたい。だからこそ、まだまだ生き抜く。
 「祈りがあれば、どんな試練も、使命に変えていける。苦しみ、闘う。その先には幸せがある。これが私たちの方程式」

 1973年(昭和48年)、20歳の時に信心を始める。夫・薫さん(69)=副本部長(地区部長兼任)=と結婚して宗像市へ。3人の子を育てつつ、40代の頃に地域に尽くそうと「リサイクルママの会」を立ち上げ、ゴミの分別などの普及に努めた。
  2005年3月 右胸のしこりに気付く。ちょっと嫌な予感がしたが、病院には行かなかった
  7月 やはり気になり病院へ。乳がんと診断される
  9月 全摘出手術
 がんは皮膚に浸潤しており、ステージは3bに。術後の入院中から抗がん剤治療を始め、2年間、通院で続けた。元気になった現在は、1年に1度の定期検診を受けながら、乳がん検診の啓発活動に尽力する。

ピンクリボン運動
 乳がんについての正しい知識を広め、早期発見の啓発、乳がん研究の助成、患者支援などを行う運動。乳がんで亡くなった患者の家族が“悲劇を繰り返さないように”との願いを込めてリボンを作ったことから、1980年代にアメリカで始まったといわれる。世界規模の運動となり、日本では2000年以降に活発化。現在では、さまざまな団体が全国で活動を行っている。

11/8^22:55
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